![]() ※札幌タイムス紙2004年11月12日、13日、14日、17日 「新潟中越地震ボランティアの報告」にも同様の記事掲載 札幌は活断層の真上かも! よく東京は関東大震災の様な大きな地震が来る可能性があり、防災には注意しなくてはいけ ないと言われている。結構そういうニュースも流れるし、聞きもする。しかし札幌のことについて はトンと聞くことが無い。「それでは札幌は?」というと東京に負けず活断層が周辺に在り、危 険であると言う。東京は寒いと言っても雪が年に一・二度降る程度の寒さであり、札幌は雪祭 りが出来る程の寒さである。それに東京は危険性があるということで対策が採られているが札 幌はまるで無しの様だ。先日、知人が札幌の緊急用の食料について教えてくれたが、一食/一 人の備蓄であると言う。何でも予算がないと言うのだ。思えば、何処かの間抜けが(食の祭典) などという無計画な事をやって1000億円もの損害をこしらえて、責任も取らず知らん振りで政 治をやっている。あの時は私も店で¥100/1箱のティシュペーパーを¥110/1箱でをダンボ ール3箱も買わされた。米の卸を通して。その他にも色々と役に立たないものを強制的に買わ され記憶がある。そのツケを「私達の命」で払わなくてはいけないのだろうか。 行ってきました、新潟へ 10月23日に新潟で大地震があったと聞き、自分の目で確かめ、どう対応すべきかを検討し た結果、現地を見てきて「札幌タイムス」と「ラジオ・カロス」の中で札幌市民に実情を呼びかけ るのが最善の方法であるとの結論を出した。そして、24日にラジオ・カロスでテントと原付バイ クの提供を呼びかけたところ、25日にはラジオネーム「やまにん」さんから2人用のテントをい ただき新潟へ出発した。25日の夜まで情報確認や用具の準備を完了し、この日の夕方には 新潟と長岡間の鉄道が開通するかもしれないというような情報も入ってきた。一方で、現在ボ ランティアを募集している社会福祉協議会という所は、どういう仕事をしているかということも調 べておいた。 第一夜は町のベンチ 最終準備の関係で、26日の朝11時のフェリーの予定が夜5時3分の新潟行きの飛行機に変 更になり、先ずは新潟空港へ。そしてバスで新潟駅へ行きました。新潟市は平常どおりで、さし 当たり地震の被害があったようには感じられなかった。やはり現地に近づかなければ情報は 入ってこないのだろうか?ここで必殺技「出会いサイト」で情報収集をしてみる。数人から返事 があり、新潟も余震があって恐いが被害はそれ程でもなく、長岡市辺りで火災や、家屋の倒壊 があって連絡の取れない友人がいると教えてくれた。新潟駅で長岡市まで普通列車のみ運行 しているのを確認し1時間かけて長岡までする。長岡ではマスコミや通常のビジネスホテル(こ んな状態で出来るのかな?)で泊まれる部屋は無く、朝までベンチで過ごすしかない状態であ った。まず、派出所へ行き「泊まれる所」、「テントを張れる所」、「24時間の風呂屋」、を聞いた が全滅。次に長岡市の被害状況と他の都市への移動方法を教えてもらったがもはや交通機 関は地震の影響で被害が甚大でとても当てに出来るところではなかった。 現地での第一報 まず、わかった事は長岡市でも火災が発生したが、その規模はそれ程大きくは無く被害も思っ たより大きくは無かった。26日現在長岡市から他の地域、例えば小千谷、川口町へ行く方法 はわからないし交通は全てストップしている様だ、と話してくれた。そして、ボランティアについて は長岡市の社会福祉協議会が募集しているのでそこへ行くようにと「おまわりさん」に教えても らった。「ごくろうさまです」と、声をかけられ地図も書いてもらい、泊まれそうな所も教えてもらっ た。結局満杯で泊まれなかったが。また、大型の入浴施設は全て休業していた。ただ、長岡市 では、コンビニや一部の居酒屋、カラオケ・ボックスは開いていたので、そこで朝まで過ごすこ とにした。でも何故ボランティアセンターは一晩中でも開いていないのかと疑問に思った。多 分、被害があって動けないのではという思いがよぎった。 地震発生4日目の長岡市の様子 ローソンは開いていた。こんな時、店の明かりはとても心強い!とりあえず入って取材してみる ことにした。店長に店の被害や他の地域への交通手段を聞いてみたが全然わからないとの 事。其れもそのはず。そこの店長は千葉から応援に駆けつけた人で元々の店長は被害にあっ て店に来られない状態であった。店の陳列用のガラス・ケースにはガム・テープが×印状に張 ってあり、トイレのドアは歪んで上手く閉まらなくなっていた。この建物自体が歪んでいることが わかった。時間つぶしに居酒屋(白木屋)が営業していたので、ここで時間をつぶすことにし た。話をしてみると、ここの店員も応援で来ているとの事であった。この店員は新潟市の白木 屋からの応援であった。ここ40年ほど大きな地震が無かったので油断があったのではないか と彼は話してくれた。さて、その後はどう朝まで時間を潰すか、途方にくれた。 ![]() ![]() 福祉協議会は平常どおり この日は小雨模様で結構寒かったが泊まるところも無く公園のベンチや雨宿り出来るところを 探して一夜を明かした。長岡駅は12時で待合室から追い出されしまった。幸いなことに長岡の 商店街は広めの軒先があり、アーケードの様になっている。これで本当に助かった。さて、市 内を一晩うろうろして、10時頃に長岡市の社会福祉協議会に行ってみた。4階建ての建物で3 階がボランティアの受付であった。既にあちらこちらから集まったボランティアでごった返してい た。受付と同時に必要な所へ去って行く。忙しいとは思ったが係りの人に状況を聞こうとした が、忙しいから待つように言われたのだが、その言い方の傲慢なこと。むっときたので「昨晩か ら待っているが、後どのくらい待てばいいのか」と食い下がったら、やっと責任者を紹介してくれ た。説明の内容は、ボランティアは自分で寝る所、食料、水、寝具等を用意してほしい。受付は 1時まで。3時以降はやる仕事が無いので終了するとの事。5時にはここの事務所は誰もいな くなる。全国からボランティアを募集しておきながら、自分たちは9時ー5時の生活を変えない。 今はどういう状態なのか彼らはわかっていないようだ。24時間、全国から心ある人たちが集ま ってくる。当然、連絡を入れてくる。そして5時には関係者は帰宅していて連絡が取れない。テ ントを張る場所もない。いい気なもんだ。 ボランティアの質は高かった 私も取材の後、この社会福祉協議会の裏手の明徳高校でボランティアをすることにした。ここ には山古志村の被災者350人程が避難していた。この日、東京練馬の第一旅団の方が震災 以来、始めての架設風呂を設置し、避難していた方は久々に風呂に入ることが出来た。風呂 は15人ほどが一塊となり、子供と女性から入浴を開始した。規定では10時まで入浴が可能な のだが、周りの民家に迷惑になるため9時で打ち切りとなった。このとき思ったのだが、風呂一 つにしても「ボランティアにはやらないぞ、ここにあるものは塵の一つまで、被災者のもので、ボ ランティアに来ている奴にやるものは何もない!」という硬い決意が伺われた。そんな中、千 葉、神奈川、埼玉などの各地から来たボランティアは黙々と働いていた。その活動は一日中続 き、就寝時間後は一時間ごとに10分間の空気の入れ替えから、暖房用のストーブの燃料の 補給にいたるまで、交代で徹夜の作業が続いていた。勿論彼等は自分の食料を持ってきてお り、テントも持参であった。何でもこれが最初ではなく他の被災地のボランティアも経験している との事。流石に彼らの行動はテキパキとしており被災者の面倒を良く見ていた。 ![]() ![]() こんな時でもお役所仕事 この時点で行政は連絡方法も寸断され、各地からの救援物資の管理も出来ておらず、はっき り言って「その日暮らし」の状態。援助物資が多く来れば多く配り、無ければ配らない。しかし間 違っても賞味期限の切れたものでも食べさせて、自分の責任になること等には、神経を使って 責任回避しているように見えた。危なそうなものは被災者に渡さない。日付切れした「おにぎり」 が1000個以上も捨てられたらしい。更には手作りのジャムを貰ったが、保健所の検査を受けて いないからと、捨ててしまおうとしたらしい。作ったばかりのジャムとはいえ、食べて何かあった ら、渡した人の責任だ。被災者が飢えても、人の善意がどうなっても自分の責任ではないが、 腹でも壊わされたら自分の責任だ。行政としてはそういったことは避けねばならないという事 か。翌日(10月28日)、明徳高校の体育館にいた人は追い出されて他のところに移った。何 でも救援物資の入れる場所を確保するため、被災者は他に回すということらしい。 レンタカーで取材 28日昼頃からレンタカーで六日町・蓬町・蓬温泉辺りを取材することにした。この辺は立ち入 り禁止になってはおらず、比較的災害が少ない地区と言うことになっていた。しかし、六日町で は倒壊した家屋が道路をふさぎ、道路のいたる所でマンホールが飛び出していた。道路は陥 没していて国道17号線もかなりの箇所で応急処置による通行となっていた。スピードを出すと ところどころでジャンプした。また地割れが池の水を抜き、錦鯉が死んでいた。17号線は信濃 川を越した辺りで通行止めとなっていた。線路には鉄道用の信号機が根元からへし折れて、 線路上に転がっていた。ふと見ると道路の横を走っている新幹線が目に入った。確かこの辺で 新幹線が脱線しているはずと気がつき、ここも取材することにした。探していると見つけた。高 架にあがって新幹線を写そうと思ったが断られる。付近を取材していると、線路と平行して亀 裂があり、それが道路を横切っていた。その亀裂に土嚢を詰め応急的に車の通行が出来るよ うにしていた。蓬温泉方面は、特段の被害は無かったようだががけ崩れの危険性があるという ことで通行止めとなっていた。その途中、所々で確かに崖が崩れていた。蓬村では、至る所で 道路が崩れ、家が壊れていた。山際の箇所は被害が大きかったと聞いていたが、正にそのと おりであった。 自衛隊の迫力 私が26日に出発する日、自衛隊が16時ごろのフェリーで出発したというニュースは聞いてい た。救援のための自衛隊は一度「新潟スタジアム」に集結することになっていたので、ここをお 邪魔することにした。レンタカーでの取材は、警察による通行止めでなかなか思うような所にい けなかった。それで自衛隊の取材をしつつ被災した地区に入れればと思い来てみた。まず、救 援部隊の規模の大きさに驚いた。広い新潟スタジアムの屋外駐車場が一杯になっていた。整 然と並んだ軍用トラック、そしてテント。これだけの規模の自衛隊がフルに活動できればいいの にと願わずに入られない。どのみち、行政や何某とかが横槍を入れて彼等の活動を妨害する ことは想像に難くない。 ![]() ![]() 緊急車両で小千谷へ 司令部を訪れ取材を申し込むと快く受け入れてもらい11時20分に現地との連絡用の車両が 出る予定で、其れに同乗する許可を出してくれた。行き先は旭川第二師団の受け持つ堀の内 と札幌第11師団の受け持つ小千谷の片貝地区である。この時点で小千谷地区はまだ立ち入 り禁止であったので、誰でも容易に入れない。この同乗許可はラッキーであった。白の自衛隊 仕様パジェロは高速道路を通って小千谷へ。高速道路ですぐに警察の通行止めに会うが、す んなりとパス。さすがに緊急車両である。高速道は、ソロバン道路になっていて、防音壁はあち こちで崩れている。道路の応急補修をしいている為、上り・下り関係なくフェンスをはずした状 態で兎も角、救急車やパトカー、それに私のような緊急車両が通れるようにしてあった。壊れ た防音壁から見える町並みは家が崩れ、電柱が左右に曲がり、その被害の大きさがうかがい 知れる。 ここでもお役所仕事 堀之内へ着いて、被災者にインタビューをすると「この地区は被害が少なかったようで風呂も 既に復旧していて自衛隊が風呂を設置しなくても既に間に合っている」との事であった。せっか く設置するのであれば、もっと有効な場所に設置を要請すればいいのにという思いがした。或 いはもっと必要な援助を申し出ればいいのに。多分、県の方で一律に要請しているのだろう。 各地区との連絡が取れていないのだろう。 このあと、片貝地区へ行った。この地区では水が不足していた。水道はまだ復旧しておら ず、一部の井戸水のみが使用可能であった。ここでの自衛隊の責任者は前田2佐という方で 最初に彼にインタビューすることにした。彼の話だとお風呂は予定より早く設置でき、30日の 午前10時の予定が29日の午後4時には入浴可能となるとの事。また水は近くの小川から汲 み上げ浄水して使い、その水質は隊員は飲んでいるとの事であった。イラクのサマワで使って いるものと基本的には同じものらしい。また、医療班が同行しているので住民に対しての医療 活動も出来るとの事であったが、この地区の行政の人が規則を盾に取って治療させないと言 っていたらしい。この隊長は談判して怪我人の治療をすることにしたらしい。よかったね!片貝 の住民の方々。前田さんでなければ、治療してもらえなかったかもしれないよ。余談であるが、 お風呂は翌日の10時まで入浴できないことになった。行政が回覧板をまわして連絡してあっ たので、その通りするのだとか。身障者等を先に入れてやれば一般の人も入りやすくなるの に、と思いながら帰ってきた。 ![]() ![]() 危機管理としてすべきこと 今回の取材で災害時に一番必要と思われたことはコンビ二の営業である。先ず、必要物資の 確保もそうであるが「明かり」が必要なのだ。その為に、行政は各コンビ二エンスに被害時の 時の人員確保と物資のバックアップを検討してもらう必要がある。またここを拠点に連絡を取 ると言うことも出来る。被災者に安心をもたらすためには「明かり」を灯す事の重要性を認識す べきだろう。次に行政は震災があった場合、縄張り根性を抑えて、出来る組織(例えば自衛隊 のような完結した組織を持つもの、実際には自衛隊しかないけれどね)に一時期の期間、被災 者の復旧を任せ、その間に行政は自分の組織の復旧に全力を尽くすべきなのだ。どのみち、 ズタズタになった組織で満足に市民にサービスを提供することはできない。また、一方でボラン ティアの使い方をマニュアル化しておく必要がある。中越地震ではボランティアの使い捨てが目 立った。ニュースでもボランティアの募集の終了は流れたが、「ありがとう」の言葉は聴かれな かった。ボランテァアはお礼など期待してはいないが、人の礼として「ありがとうございました。 心から感謝します」くらい言うのは当然である。それも言えない新潟は情けない地域である。札 幌もそうならないように注意すべきであろう。その為にも中越地震のようなものが起こった時に すぐに市・道の職員は災害地に赴いて自分でボランティア活動を体験してみるべきであった。 多分、誰一人行った人はいないであろうが。行くとしても安全になった、これからだろうか。つま りは初期動作はするつもりがないと言うことか。安全になってから行動するつもりなら、やはり 初期動作には口を挟んで被災者に迷惑をかけることの無い様にすべきである。第三に被災者 をボランティアに回す事を考えることである。肉体的、精神的に問題ない人に関して、体を動か すことが健康管理につながり且つ復興状態がしっかりと被災者に伝わり、被災者に安心をもた らす効果がある。それに次の段階でより早い復興するためには、他人に頼るのではく自助努 力で何とかする以外に無いのである。そのためにも、避難所で寝ているのではなく、一歩でも 再建に向けて歩む必要がある。早い時期に立ち上がる準備をすべきなのである。 ![]() ![]()
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